紺野冬果さんを特集する:とうかとわたし

(さかなのたび2004年11月再録)


特集のページで、友達にスポットライトを当てるのは安易だと言ったけれど、
とうかの事を第1回から特集することが出来るなんて、
多分、色んな人にうらやましがられるのだと思う。
彼女の描く絵は、とても上手で、とても人気があるから。


昔からわたしは、みんなに
「冬果ちゃんに、絵が描いてもらえるのは、本当に恵まれてる」と言われてきた。
わたしはそう言われるたびに、知らん顔をしていた。
時々、意地悪な人がその言葉に混ぜる嫌味にも、とうかの絵のことも。
だから、わたしは彼女の絵をほとんどほめたことがないと思う。
ちょっと癪だったのだ、みんな彼女の話をする時絵の話を最初にするから。
だから、いつも確信犯で知らん顔をしていた。
まあ、でも仕方のない話ではある。
だって、とうかはいつも絵を描いているし、
描くことをとても大切にしているから。
その事実はかわらないのだけれど、
でも、自意識過剰で、幼稚な発想なんだけれど、
せめてわたしが彼女を特集する時ぐらい、他人との差別化を図りたいのだ。
という訳で、今回は紺野冬果さんについてのお話。


わたしのホームページのプロフィールの欄に、
「今まで書いた作品でまっとうなもの」というのがあるけれど、
『papillon de nuit』 も『幸福論』も、
高校生のときに、全部とうかが関係してくれて完成させたものだ。
前者は某高校(わたしの出身高校じゃないよ)の文芸部に投稿したもので、
とうかに挿絵を描いてもらい、
後者は家庭科の「手作りのものを作る」という授業に、
彼女が漫画を描いたのである。その原作がわたし。


大体、家庭科で漫画を描くなんて、おかしい。
わたしはその時フエルトでサッカーボールを作ったんだぞ。
綺麗な球体で、なかなかの出来だったのを、近所の小学生に持っていかれたのだぞ。
そういえばあの時、わたしが小説を書いて提出したら単位はもらえたんだろうか。
でも、漫画を読んだ家庭科の先生が、
「うん、哲学的な話で、ちょっと難しいね」と言ったのを聞いた時、
多分、つまらなかったのだということが分かってしまったので、
やっぱりサッカーボールでよかったんだと思う。
クラスの女の子全員で、漫画の原稿を手伝ったのが懐かしい思い出だ。


仲良くするグループは違ったけれど、
こんなふうに、とうかとわたしは2人で仲良しさんだった。
席が隣になると授業も聞かず筆談していたし、
いつも自転車をふたり乗りして帰った。
友達に言われたのだが、
その姿は「ハイカラさんが通る」のような女学生ぶりだったそうだ。
なるほど、だからふたり乗りをしているのを
お巡りさんに見つかっても注意されなかったわけだ。
当時も今もそうだが、重要なことは、絵でも小説でもないのだと思う。
そういうのは、絶対個人プレーだ。
わたしは、彼女の絵よりも、彼女自身のほうがよっぽど芸術作品だと思っているし、
彼女の生業が、絵でも料理でもスポーツでも親孝行でも、
別に何もしなくても、なんでもいいのだと思う。
わたしはとうかを面白がってる。
とうかも多分わたし以上にわたしを面白がってるけど。


ところで、とうかをひとことでいうなら、
「頑固者」だとわたしは言うと思う。
浮かぶイメージは、あくまでイメージだけれど、
アスファルトの道で転んで、立ち上がらないまま地面に齧りつく感じ。
大きな声で意志を伝えるわけでもなく、
しゃがみこんでじっと黙ったまま、絶対に退かない。
わたしはどちらかというとそこまで執着することも少ないし、
うまくかわして人とぶつかることはない方だから、
とうかを見ていると、ちょっとその不器用をかわいそうに思う反面、
とてもうらやましく思ってしまう。
なぜなら、彼女にはちゃんと欲しいものが分かっているのだと思うから。
それは、絵を描いていることもそうだし、
猫がすきということもそうだし、あといろいろ。


いっしょに遊んできた8年間、彼女の頑固さを、
色んなところでまのあたりにしてきたのだけど、
そのなかでひとつ、忘れられないことがある。
それは、わたしととうかの違いがはっきり分かったことでもあるし、
とても悲しいことでもあって、思い出すといつも胸が苦しくなる。


それは、『幸福論』を描いたすぐ後だったから、高校2年の秋頃だったと思う。
いつものように、学校の帰り道、
自転車のうしろにとうかを乗せて遠回りをして帰ったときのことだ。
遠回りするところは、大抵、町外れの調整区域で、いちめん田んぼだったところ。
空がよく見えるから、ふたりともお気に入りだった。
そろそろ帰ることにして、新川の堤防のすぐ下の道を曲がったとき、
急に猫の鳴き声が耳に飛び込んできた。
とうかがめずらしく大きな声で「止めて」と叫んだのに、わたしは驚いた。
自転車に急ブレーキをかけて、鳴き声の聞こえる方を見ると、
大きな段ボール箱から、子猫が飛び出してきて、
わたしたちに向かってにゃあにゃあと甲高い声で鳴いた。
とうかがその子猫に向かって走り出したとき、
わたしは凍り付いてなかなか動けなかった。


即座にわたしが思ったのは、「めんどくさいことになってしまった」ということ。
よく見ると、子猫は2匹いた。わたしたちを呼んだ子猫は、黒と白の猫で、
もう一匹は三毛猫で、ダンボールの隅で震えていた。
わたしは、捨て猫を生まれてはじめてみたので、
漫画によくありそうなワンシーンだとぼんやりと思った。
だけど、こんな人気のないところに、ダンボールのふたを閉じて、
子猫を捨てて、拾われることを願わずに人は猫を捨てるのだと知った。
この子猫たちはいずれ死ぬんだ。
そう思ったら、わたしは怖くなった。
この子猫たちを見つけてしまったことによって、
わたしも同じ罪を背負わなければいけなくなってしまったのだから。
わたしの家は猫が飼えない。飼い主を探してあげることもできない。
この子猫たちを、置き去りにしたなら、この子たちは死んでゆくんだし、
もし、拾ったなら、わたしはまた、ここに捨ててこなければならないだろう。
泣きながら猫を捨てに行く、自分の姿を思い浮かべた。
拾っても、拾わなくても、わたしはこの子猫たちを殺すんだ。


愛しそうに猫を抱いているとうかに、わたしは「帰ろうよ」と言った。
その声は、自分でも冷たく震えていて、自分でも驚いた。
とうかは、連れて帰ると言った。わたしは、やめろと言った。
無責任に連れて帰るわけには行かなかった。
子猫はうるさかったし、とうかは退かなかった。
とうかは無言で猫を抱きしめて、
アスファルトにしゃがみこんで長期戦の体制をとった。
わたしは自分の恐怖感を説明できなくて、帰ろうと繰り返すばかりだった。
2匹の子猫を捨てたのはわたしのせいでもいいし、
この子猫を見殺しにするのもわたしのせいでもいいと思った。
夕焼けはわたしを追い立てたし、わたしは子猫におびえていた。
だから、とにかくここから帰りたかった。
だけど、とうかはわたしを睨みつけて、
無言でわたしを責めて、許してはくれなかった。
わたしは子猫2匹ととうかに責められて、うなだれた。


結局、とうかと子猫2匹を自転車に乗せて、家に帰った。
その帰り道、夕日が田んぼの稲穂にきらきら光って、
まぶしくて、綺麗だったけれど、わたしは泣き出しそうだった。
とうかは、猫を拾えるのだ。わたしは、猫を拾えないのだ。
その違いに愕然とした。


とうかがうらやましかった。
とうかもわたしも子どもなのに、どうしてこうなんだろう。
わたしは、その時、早く大人になりたいと思った。
大人になれば、猫を拾うことも、きっと、できる。
とうかが、なんども、なんども、猫を見つけても、一緒に連れて帰ることができる。
これから一緒に住む人が猫を拾ってきたら、飼ってあげることもできる。
うしろで、子猫たちはにゃあにゃあ鳴いたけど、
一番泣きたかったのはわたしなんだよ。
オレンジ色の夕日に照らされながら、
一生懸命自転車をこぎながら、とうかは頑固だと思った。
わたしは自分の弱さを恥じた。
それから、うしろで愛しそうに猫を抱く彼女を、恨んだ。


その後、子猫たちはスウとシャオと名付けられて、
スウはゆずりの家で飼われて、シャオはもらわれていった。
スウは、わたしが書いた『幸福論』に出てくるクモに似て、
ブサイクだったのが、いつの間にか、とても綺麗な猫になっていた。
わたしはとうかのおかげで、子猫たちを捨てた人とは、事実上同罪をまぬがて、
だけど、スウを見るたび、罪悪感に駆られた。
わたしたちはというと、相変わらず仲が良くて、
自転車をふたり乗りして、田んぼを駆けずり回っていた。
だけどある日、急な坂を、ブレーキなしで下ったときに、
ぱぁんと軽い音を立てて、後輪が破裂した。
以来、ふたり乗りはおあずけになって、
お散歩は各自の自転車でするようになった。
それが、確か、大学2年生の頃だから、
4年間もふたりで自転車に乗っていたことになる。


今でも、そこに行くと、猫がまた捨てられているような気がして、
何度もふりかえる。
そこで、わたしはなんども、なんども、想像の中で、猫を置き去りにする。
するとそこにとうかがあらわれて、意固地な顔をして、わたしを責める。
なんども、なんども、わたしの猫殺しをとめる。
わたしは、なんども、彼女に助けられて、そのたびに、彼女を恨む。
だから、わたしは、ぜったい、彼女には勝てない。
きっと、これからも、ぜったい、勝てない。