名づけることと、名を呼ぶこと
今更だけど、「成分分析(http://seibun.nosv.org/)」の結果をここに載せさせてください。
ずいぶん前にやったのだけど、
その結果がちょっとリアルであんまり人に言えなかったのです。
ふつう成分分析って、面白いものじゃない。
例えば…
ex1 わたしのHN「飴屋さかな」
飴屋さかなの解析結果
飴屋さかなの53%は大人の都合で出来ています
飴屋さかなの37%は黒インクで出来ています
飴屋さかなの9%はマイナスイオンで出来ています
飴屋さかなの1%は濃硫酸で出来ています
とか、
ex2 黒いけど筋のある男「野中広務」
(最近話に出たから)
野中広務の解析結果
野中広務の54%は大阪のおいしい水で出来ています
野中広務の39%は雪の結晶で出来ています
野中広務の4%は濃硫酸で出来ています
野中広務の3%は成功の鍵で出来ています
とか、ほら。なんていうか、冗談ぽくて面白いじゃない。
でも本名でやると…
□□□□の解析結果
□□□□の55%は乙女心で出来ています
□□□□の45%は知恵で出来ています
うわっ。シンプル。そして、「55%乙女心」って…変に当たっている気がする。
恥ずかしいよー。恥ずかしいよー。やだやだ。そんなのやだ。
わたしはしばらくのた打ち回っておりました。
なんだか、自分の少女趣味なところを指摘されてしまったような心地です。
わたしは「名前をつける・名前を呼ぶ」という行為をものすごく美化している所があります。
つまり、その行為自体をとても意味のあることだと思っているし、
心理的、特に、ロマンチックなことだと思っているということです。
まあ、万葉の昔から「言霊のさきはうくに」と言うくらいだもの、
そういう思想を内面化しているということなのだと思うのですけど。
そして中でも「名前をつける・名前を呼ぶ」ということは、
特に、人間関係(人間だけではないけど)においてすごく意味を持つと思っています。
人と人を動かす力があると思っているし、
人と人に可能性を生み出すと思っています。
わたしは自分の名前をすごく気に入っていて、
とりわけ姓と名の「ものすごく据わりのいい」漢字の組み合わせを密かに自慢しています。
だから、姓でも名でも、きちんと名前を呼ばれるのが好きです。
人というのは自然と自分にしてほしいことを他人にしている面があるわけで、
そういうわけで、わたしは「人をあだ名で呼ぶ」ことをあまりしません。
みんながそのあだ名で呼んでいるというあだ名の場合はとりわけ。
(例えば、鶴田さんのことをみんなが「つるちゃん」って呼ぶけど、
自分だけはなんだかそういう風には呼べないとか)
一方で、こんな風に「名前をつける・名前を呼ぶ」ことに意味を感じているから、
自分だけの「自分だけしか呼ばない呼び方」ということに対する執着があります。
誰も呼ばないけれど、自分だけがその呼び方をする。
多分わたしはそこに「名前を付ける」という意味を見出しているのだと思います。
自分の中にある「名前を呼ぶ、名前を付ける」ことに対する執着心は、
多分、わたしのなかにある、
相手と排他的な関係を作ろうする欲求の表れなんじゃないかなぁ…
なんて、自省的に思ってしまいます。
考えてみれば、小さい頃、わたしは「大勢で仲良くする」
やり方がわからなかったし、今もそんなに上手じゃないのだもの。
「自分と相手にしかない特別なもの」って、
どうして、こうも心地よいものなのでしょうか。
こういう少女趣味なことばっかり書いているから、
成分分析の結果が妙にリアルなものとして迫ってくるのですよ。
いかんよ、いかんよ。
そして、思い出す指導教員の一言
「さかなくんが主体性とか言うのはおかしい。依存性が高いだろう」
けーっ。うるさいわ。ぺっ。ぺっ。